2010年6月17日木曜日

Likes and dislikes

例えば 芸能人で あの人嫌いとか言っても、 それは その人が嫌いなのではなく、その人の芸風や、芸能活動が嫌いなのだから、もし、直接会ってお付き合いする機会があれば、充分反転する可能性はある。
だから 風評で聞くだけ、一方的に見るだけな人に対しの嫌いは、実際には 本当にその人物が嫌いなのかどうかというと、そこは全く充てにならない。
もちろん、一部の印象が悪ければ、余り近づかないので、本質を知る機会はぐっと減り、嫌いというか「まったく意識下にない人」のまま終わることが多いのだが。

基本的に あまり「嫌い」な人は居ない。というか 嫌いな部分が目につく人には近寄らなかったり 無視したりなので、それ以上その人に迫ることがないから 「嫌い」になれないわけなんだが。
それが 向こうから(それが相手の意思によるとよらずと、関わらず)近寄って来たら、再度自分の中で「嫌い」認定をし直すわけだ。つまり「嫌いな人」は普段は「無い存在」になってしまっているものだから、「嫌いな人は余り居ない」ということになる。

が、芸能人とか有名人とか 勝手に目に飛び込んでくる人は(私にしてみれば 向こうから意思によらずと近づいて来た人になる)しょっちゅう「嫌い認定」をされるわけで、普段「嫌いな人が少ない」もんだから、必然私の中では 珍しく「嫌いな人」の位置を確保してたりする。申し訳ないんだが。


いきなり何の話かと言うと、ある人のことを 私の友人が褒めるんですね。褒めちぎる。歌を歌ってる人なんだけどね。
で、私はその人の歌が 嫌いなんです。何が嫌いって 歌い方と声が嫌い。
音楽は リズムがあって、メロディがあって、演奏があって、メッセージと言うか世界感があって。そのどれもが好みに合致して初めて好きになったりするんだけど、歌声とか歌い方って この演奏の部分ですよね。
これがダメだと、「他の奏者のほうがいいじゃん」となって その歌い手否定になっちゃうわけで、、
まさにそれ。
あのうた、他の人が歌ったほうがいいじゃん、、と いつも思いながら聞くわけです。
そのほうが 世界が広がるのに、、もったいないーーと。

そんなわけで、申し訳ないけど、いくら褒めてもお薦めされても 私には全く解らないし、耳障りなだけです。
その曲がSLで流れてたりしたら、即刻 イヤホン外すくらい 耳障りでイヤ。

もちろん その歌い手さんとあったことも無いし、どんな人なのかも全く見当つきませんから、いやなのは 歌声と歌い方だけです。
でも 歌い手さんにとっては、それがイヤと言われるのは いちばんショックなんでしょうね、、きっと。

仕方ない 好き嫌いは 単純に好みの問題なんですから。

2010年6月7日月曜日

I turn eyes away from it.

 私は 自分の弱さを武器にするのが嫌いだ。だから、そういう人。そういうことをしている人からは 目をそらす。

 そりゃ 弱音を吐くことくらいはある。何かにつまづいて、誰かに叩かれて、見えない壁に阻まれて。
 転けちゃった、、痛いよ。辛いよ。酷いよ、止めてよ。もう出来ないよ。無理だよ〜〜〜。
 悲しみ、苦しみ、憤り、凹んでぐちぐちと 自分の負の感情を吐き出す。そんなことがないとは言わない。振り返れば、あの時も、あの時も、どこかに、誰かに、ぶちまけてた。
 
 でも、そこで終わってたはず。
 決して、「私って可哀想でしょ」という顔はしなかったはず。


 実は 私は、とても神経質で、細かいことが気になるくせに、出してくる結論や行動は 大雑把である。
 それはけっこう長い間かかって、自分で育てた防衛方法の様な気がする。
 神経質に考えて、細かいことばかり気にして、それに捕われて動いていると、前に進めないことが多いのだ。私の場合。
 だから「気がついても気にしない」ことを覚えた。そして、どんどん進んでいく。

 そのことで、取りこぼしたものは、もちろん結構あるだろう。
 でも、私はちゃんといつも 自分の足で前を向いて歩いてる。それでいいんだと思ってる。


 そういう私は、だから実は 人の弱さが解らない。
 いわゆる 心の病気が解らないんだ。
 だから そういう心の弱い人たちには表面上の同情の顔しか出来ないし、そのうちそれも作るのがしんどくなって、離れてしまうのだ。「自分の弱さを武器にするんじゃない!」と思って。


 その人たちは、それを武器にしてるつもりはないのかもしれない。
 しかし、私にはそう見えるんだ。
「私が悪いの。」という台詞は、自己責任を装った周りへの牽制にしか見えない。
 そして 弱者を責める者はいつも悪者にされるという 世の図式の上に乗っかった、自己防衛だ。弱いフリで、責める人を攻撃している。責めているわけではない。助けないだけだ。それでも助けない人は、まるで人でなしのように、今度は周りから責められるのだ。
 立派な武器であろう?

 
 本当に 心が弱い人はいるんだろう。
 私の周りにも少なからずいる。「どうせ私がすべていけないんだ。」と 自己批判のフリをして、自分を哀れむ人。
 「私って可哀想でしょ」「私はこんなにがんばってきたのに」と どうしても自己アピールしたい人。

 自己批判なら 冷静にしろ。と言ってはいけない。どことどこが悪くて、どうすべきだったか、、、なんてことは、彼らには関係ない。「すべて私のせいにすればいいのよ」とただ、自分を哀れむ立場に置いて、思考を停止することで、心のバランス保っているだけだから。
「ほんと、可愛そうね」「うんうんよく頑張ったね」と思ってなくても同意してやらなくてはいけない。それはそのときの唯一の彼らの自己確認なのだから。
 あーめんどくさい。そう言ったとたん、私は悪者になるんだ。
 

 いいや、もう悪者でも。
 手なんか差し伸べてやるものか。
 私は自分で立ち上がってきた。「そう出来ない弱い人もいる」ことなんか、知るか。じゃあ ずっと立ち上がらないで、転がってろ。
 貴方は本当に辛い思いをしたことがないから 解らないんだとか、勝手に言ってればいい。
 私が本当に辛い思いをしたとこがあるのか、ないのかなんて、解らないだろうし、解ってほしくもない。
 少なくとも、私は生きているし、明日も多分生きていると思えるし、その為の住む場所も食べ物もある。
 同じく、住む場所もあり、食べ物のあって、自分が可哀想だと思っている、生きていける貴方に手を差し伸べるくらいなら、住むところも、食べる物もない、明日生きていけないかもしれない、自分が可哀想だとか、思うことすらできない、遠い誰かに指の一本でも差し伸べたほうが価値があると思っているんだ。
 
 冷たい人間と思われてもいいよ。
 私は 自分の弱さを武器にする人の言葉は聞きたくないし、見たくない。

 そんな武器で 他人の時間を奪わないでくれ。