2010年6月7日月曜日

I turn eyes away from it.

 私は 自分の弱さを武器にするのが嫌いだ。だから、そういう人。そういうことをしている人からは 目をそらす。

 そりゃ 弱音を吐くことくらいはある。何かにつまづいて、誰かに叩かれて、見えない壁に阻まれて。
 転けちゃった、、痛いよ。辛いよ。酷いよ、止めてよ。もう出来ないよ。無理だよ〜〜〜。
 悲しみ、苦しみ、憤り、凹んでぐちぐちと 自分の負の感情を吐き出す。そんなことがないとは言わない。振り返れば、あの時も、あの時も、どこかに、誰かに、ぶちまけてた。
 
 でも、そこで終わってたはず。
 決して、「私って可哀想でしょ」という顔はしなかったはず。


 実は 私は、とても神経質で、細かいことが気になるくせに、出してくる結論や行動は 大雑把である。
 それはけっこう長い間かかって、自分で育てた防衛方法の様な気がする。
 神経質に考えて、細かいことばかり気にして、それに捕われて動いていると、前に進めないことが多いのだ。私の場合。
 だから「気がついても気にしない」ことを覚えた。そして、どんどん進んでいく。

 そのことで、取りこぼしたものは、もちろん結構あるだろう。
 でも、私はちゃんといつも 自分の足で前を向いて歩いてる。それでいいんだと思ってる。


 そういう私は、だから実は 人の弱さが解らない。
 いわゆる 心の病気が解らないんだ。
 だから そういう心の弱い人たちには表面上の同情の顔しか出来ないし、そのうちそれも作るのがしんどくなって、離れてしまうのだ。「自分の弱さを武器にするんじゃない!」と思って。


 その人たちは、それを武器にしてるつもりはないのかもしれない。
 しかし、私にはそう見えるんだ。
「私が悪いの。」という台詞は、自己責任を装った周りへの牽制にしか見えない。
 そして 弱者を責める者はいつも悪者にされるという 世の図式の上に乗っかった、自己防衛だ。弱いフリで、責める人を攻撃している。責めているわけではない。助けないだけだ。それでも助けない人は、まるで人でなしのように、今度は周りから責められるのだ。
 立派な武器であろう?

 
 本当に 心が弱い人はいるんだろう。
 私の周りにも少なからずいる。「どうせ私がすべていけないんだ。」と 自己批判のフリをして、自分を哀れむ人。
 「私って可哀想でしょ」「私はこんなにがんばってきたのに」と どうしても自己アピールしたい人。

 自己批判なら 冷静にしろ。と言ってはいけない。どことどこが悪くて、どうすべきだったか、、、なんてことは、彼らには関係ない。「すべて私のせいにすればいいのよ」とただ、自分を哀れむ立場に置いて、思考を停止することで、心のバランス保っているだけだから。
「ほんと、可愛そうね」「うんうんよく頑張ったね」と思ってなくても同意してやらなくてはいけない。それはそのときの唯一の彼らの自己確認なのだから。
 あーめんどくさい。そう言ったとたん、私は悪者になるんだ。
 

 いいや、もう悪者でも。
 手なんか差し伸べてやるものか。
 私は自分で立ち上がってきた。「そう出来ない弱い人もいる」ことなんか、知るか。じゃあ ずっと立ち上がらないで、転がってろ。
 貴方は本当に辛い思いをしたことがないから 解らないんだとか、勝手に言ってればいい。
 私が本当に辛い思いをしたとこがあるのか、ないのかなんて、解らないだろうし、解ってほしくもない。
 少なくとも、私は生きているし、明日も多分生きていると思えるし、その為の住む場所も食べ物もある。
 同じく、住む場所もあり、食べ物のあって、自分が可哀想だと思っている、生きていける貴方に手を差し伸べるくらいなら、住むところも、食べる物もない、明日生きていけないかもしれない、自分が可哀想だとか、思うことすらできない、遠い誰かに指の一本でも差し伸べたほうが価値があると思っているんだ。
 
 冷たい人間と思われてもいいよ。
 私は 自分の弱さを武器にする人の言葉は聞きたくないし、見たくない。

 そんな武器で 他人の時間を奪わないでくれ。

0 件のコメント:

コメントを投稿